逞しくも愛おしいインドネシア語の先生達
前述プライベートレッスン1で、その内容につて記載しましたが、第二弾として私がお世話になったインドネシア語の先生達、そのネットワークおおよそ10名のうち極直近のコロナ禍前迄、勉強にお付き合い頂いた三名の先生を思い出とともにここに紹介致します。無論、今でもたまにではありますが、インドネシアで人気のアプリ(WhatsApp)にて日本にいながらも交信をさせて頂いております。直近ではインドネシア、日本共にコロナ感染者の数が激減しておりますが、数か月前は正に大変な状況下にありましたので、お互いの健康確認の為交信をしております。因みにたまたまではありますが、先生は皆さん女性です。今回、匿名でのご紹介とさせて頂きます。
- M先生(既婚でお子さんが二人)
- P先生(一流商社勤務の独身貴族)
- D先生(インドネシア肝っ玉母さん)
M先生;文法、セオリー、正しく明快なインドネシア語の正統派
この先生は、別の先生からご紹介を頂き2006年からプライベート個人レッスンを始めました。有る機関で先生として日本人にインドネシア語を教える経験の長いその道のプロと言えるでしょう。気さくで明るく、決して諦めないその指導には随分と助けられました。当時、私は二回目の赴任でC級は既に日本で取得しておりましたので、B級受験を目標とした勉強を始めました。多分この当時から授業は全てインドネシア語で実施としました。本当は、この先生も日本語は相当上手い使い手だと思いますが、残念なことに私は日本語でコミュニケーションを取る機会が有りませんでした。
文法、教材、テキストは完備しており、効率的で且つ抜けのない文法を基礎から教わった記憶があります。“イヤー、インドネシア語の文法も大変なものだ。”と思いながらも毎週末に自宅のアパートまで来て頂き、ほぼ欠かさず毎週末勉強を続けました。
半年に一度、年二回のB級受験も、落ちる度にこちらが“もうやめようかな?”と言うと“もう一息だから、頑張って”と励まして頂きながらB級合格までお付き合い頂きました。その後、帰国後に長らく間が空きましたがこの間に彼女は結婚、その結婚式にご招待頂き、日本から駆け付けたことも良い思い出となっております。
そしてまたまたの出向、早速“ご無沙汰していますが、また来ました。A級受けますので宜しくお願いします。”二つ返事で“了解。”となりました。ところが彼女は結婚後、小さな子供も授かっていましたので、毎週こちらがジャカルタからブカシまで約15キロの彼女の自宅付近のショッピングモールまで出向いてカフェで勉強をしました。しかし、この間も更に平日或いは日曜日に並行して他の先生のレッスンを受けておりました。
P先生;気さくで日本人的、飾らず奢らず安心して勉強
この先生は、当時UI(インドネシア大学)の日本語学科の学生でした。詳細は忘れましたが、基本的には過去問の繰り返しと自作単語帳のレヴューが中心だったと思います。約二時間のセッションの冒頭に文章を読み、分からない単語を調べ確認、ところが同じセッションの後半で同じ単語が出て来ると、私は“これは初めて習う単語です。”すると先生は、“いや、さっき出て来ましたよ。勉強したばかり、、、”となり、結局は最初の方で習っていたことが判明。恥ずかしくもこんな繰り返しをやっていました。高齢化による余りの覚えの悪さにも、怒らず呆れずにお付き合い頂きました。
そして、ついに第二回目の出向も5年目に入り、そろそろ終わりかなという雰囲気の中でB級受験もほぼ10回目を迎え、これが最後かもしれないとの思いから、ほぼ試験三か月前から、平日毎日の集中講座に突入しました。毎日仕事から戻り、夕食もそこそこに夜八時から二時間のセッションが始まります。アパートに来てもらい、ほとんど頭が働かない中で、ひたすら過去問と単語帳の繰り返し。その内に、試験のパターンは愚か答えまで暗記してしまい、勉強にならないのではと思いました。
過去問の繰り返しによって、その問題と解答のパターンが完全に頭に入り、ほぼ文法的な裏付け、理解も無く答えが頭にこびり付いて行きました。
当時は余り気にしなかったのですが、彼女は当時、丁度大学の夏休みで、その間毎日の恰好の高収入アルバイトが出来たようです。これは、後日談で聞きました。
B級合格
この結果、第二回目出向5年目10回目のB級試験に合格することが出来ました。特段出来が良かったという事後の印象は無く、まあまあかな?と言う位でしたが何とか受かりました。この一次、二次の受験談は別ブログに詳細を記述していますので、是非ご参照下さい。しかし、これは非常に嬉しく、長らくお付き合い頂いた上記の先生方には大感謝。そして、感謝の気持ちとしてその回の試験問題の読解に出てきた日本の和牛に関するトピックに絡めて、和牛ステーキのフルコースをご馳走しました。味は余り覚えていませんが、値段は超一流だったことだけは記憶にのこっています。
そしてM先生から、更なる精進の為にと、“Kamus Besar Bahasa Indonesia”インドネシア版広辞苑を頂きました。これは、それ以降日本に持ち帰り大切な蔵書として保管しております。(使ったことはありませんが。)
そして、今振り返るとこの先生方には更にA級受験に向けた指導をお願いすることになるのです。
D先生;インドネシア肝っ玉母ちゃん(私のメンター)
この先生は、三回目の出向(厳密には4回目)の出向時に知り合いの紹介で、上記M先生、P先生に加えて参戦頂くことになります。
現在50歳+α位、旦那さんは日本人ですが、15年以上前にインドネシアでの交通事故で死別、日本には10年以上住んだ経験があるとのことです。その後、一人息子を育てながら現在まで、フリーランスの先生として日本語、インドネシア語を教えて来た強者です。息子さんはその後独立し、現在は日本で仕事をしています。日本語のコミュニケーション能力は10年以上の日本での生活をベースに、強烈な実践能力があります。そしてプライドも高く、しかし時折弱い一面も見せる中々活発なおばちゃんです。
私は、インドネシアのメンターとしてその人生から生きる力強さを学びました。そして本人にも話したのですが、題記の“インドネシア肝っ玉母ちゃん”と名付けさせてもらいました。勉強は、A級受験ともなると、先生方も困るようです。こちらも文法や過去問にも飽きてしまい、やりたくない。そんな中で週一の授業はメニュー無し。毎回私が現地新聞 Kompas から興味のあるトピックス、記事を取り上げ黙々と読む、音読。そして分からない単語やフレーズを先生に聞くというパターンでした。ところが、話好き、教え好きの先生は出番が無く、私の質問に対し包括的なインドネシアの文化、事象の背景や説明、等々を詳細語り始めます。ところがこちらは、“いやいや、そんなことは分かっているので純粋にその単語の意味、基語の意味を知りたい”と意見が合わず,“ちょっと黙っててくれる”となり毎回喧嘩になります。熱くなると勉強どころでは無くなりますので、勉強は中止、では旨いもん食べに行こうとなる訳です。喧嘩の後は旨いもん食べて仲直りということです。気っぷが良く、又感情が表に出る、そして“私一人で息子を日本人として育て上げた。”が彼女の決め台詞。そこで彼女を“インドネシア肝っ玉母ちゃん”と勝手に任命致しました。
これってインドネシア語の勉強?
この様にA級受験勉強は、進んで参りましたが、やはりだらだらと長期戦になるのはいけません。よって、未だに合格出来ないのです。短期集中で純粋な受験対策に取り組むことをお勧め致します。長くやれば良いというもにでは無いようです。皆さんの成功を祈願致します。
